芽室とは、アイヌ語で「メム・オロ」が転化したもので、意味は「川の源の泉や池から流れて来る川」です。十勝川、芽室川、美生川などが潤した肥沃な大地には、小麦、じゃがいも、小豆、ビートなどの作物が広大な畑で育っています。
まちの大きさは東西22.6km、南北35.4km。その約42%が農地で、49%が山林となっています。
本州の観光客たちが芽室を訪れて驚くのは広大な畑作地帯です。カリフォルニアの空を連想させる気候は、日本有数の晴天率(平成8年度から10年間平均48%)を誇り、作物や人々を元気づけています。夏は昼暑く夜は涼しい風土がおいしい作物を育てているのです。年間平均気温6°C。寒暖差は夏は30°C以上。冬には氷点下20°C以下になることもあります。
自然豊かな魅力とおいしい農産物食品を味わって「感動めむろ」を体験してください。
次世代に引き継ぎたい「芽室の宝物」
芽室町の豊かな自然や、町民によって築き上げられてきた文化や産業、生活など様々な価値の中で、芽室町独自の視点で次世代に引き継ぎたい有形・無形の財産の中から「芽室の宝物」として町民により選定しています。
芽室の誇り…第62代横綱大乃国
芽室町出身の第62代横綱大乃国(現 芝田山親方(本名 青木康氏))は、昭和37年10月9日に芽室町美生で生まれ、日本の国技大相撲で活躍、通算成績は426勝228敗(105休)、幕内最高優勝2回、殊勲賞5回、敢闘賞2回の輝かしい成績を残しました。
昭和53年に地元芽室町を離れ角界に入門、その年の春場所に初土俵を踏み、昭和57年春場所に新十両、同58年春場所に新入幕。 その年の九州場所で、北の湖・千代の富士・隆の里の三横綱を倒す大活躍。 翌59年の春場所では、三横綱三大関を総なめにし、殊勲賞・敢闘賞を受賞。 昭和60年名古屋場所後に大関昇進、62年夏場所で15戦全勝の初優勝を果たし、芽室町で優勝パレードも行われました。 この年の秋場所後に第62代横綱に推挙され、翌63年春場所で2回目の優勝を果たしました。 昭和63年の九州場所では、当時53連勝中の千代の富士に土をつけ、この一番は『昭和最後の一番』として今も語り継がれています。 平成3年7月名古屋場所で現役を引退し、その後現役名で年寄となり、のちに「芝田山」を襲名。 平成11年6月に満を持して芝田山部屋を開き、現在親方として弟子育成に奮闘する傍ら、毎年芽室町で夏合宿を行なう際には、芝田山杯子ども相撲大会を開催。また、盆踊り大会への参加、特別養護老人ホームや授産施設オークルの訪問など地元芽室町の発展・振興にも務められています。 芽室の誇りである元横綱大乃国の芝田山親方は芽室町をこよなく愛する一人でもあります。
十勝川支流美生川に住まうコロポックル
芽室町の言い伝えの一つにコロポックルの話があります。北海道が蝦夷と呼ばれた昔。魚をとったり、狩りにすぐれた小人族のコロポックルが芽室の新嵐山付近で暮らしていたそうです。その伝説をご紹介します。
はてしない草原と密林が続く十勝原野には、まだ一筋の道もなく昼夜問わず野獣の泣き叫ぶ中、十勝川支流美生川を登り魚影を追う一団がいた。それはコロポックル族であった。
美生川は川幅も狭く水量も手ごろで魚の数はどの川よりも多く、更に上流へと登っていくと山峡の中の大きな滝にたどり着いた。その場所が丸山であった。滝の下流は魚を手づかみするほど豊富な漁地であり、山々には、ブドウ・コクワ・野イチゴ、原野にはウバユリを始め、野草が群生し、この丸山を一族の安住の地と定め、早速、竪穴住居を作りました。コロポックル族の生活は「雨が降ったり、日照りが強いとフキの下で休み、腹が減ると狩をし、満腹になると寝る」など平和で優雅な暮らしをしていた。
ある日、大変恐ろしい話しが伝わってきた。それは身の丈6尺(約182cm)あまりある眼光鋭く、頭髪の多い猛虎かと思われる異民族が攻め登ってくるということであった。コロポックル族は、丸山の断崖を砦として異民族の襲撃を防ぐことにした。サケを追って美生川を登ってきた異民族は、コロポックル族の「安住の地を守る強固な砦」に向かって激しい攻撃を加えた。
その後、このような戦いが二度繰り返されました。ところが数年後、猛獣の吠える上伏古の原野を突破した異民族は、なだらかな砦の背面に回り、怒涛のように押し攻め砦を奪い取ってしまった。その後、安住の地~丸山からコロポックル族の姿は消えてしまった。
(芽室町郷土読本より)